なぜ、わたしは雨の公園でキスをしたのだろうか。
1カ月前には、いや1時間前には想像もできなかった展開にとまどいながらーーそしてヤマサキマコトの唇を拒まなかった自分自身にとまどいながらーーわたしは山崎の言葉を待った。
「先週末、母の三十三回忌がありました」
ヤマサキさんのお母様は亡くなっている。三十三回忌だから、 彼が高校生の頃。でも、それとわたしに何の関係が? 頭の中でそんな疑問をぐるぐるさせながら、わたしはいかにも年上の女性らしく聞こえるよう「はい」と、落ち着いた声で相づちを打った。
「母は不幸な最期を遂げましたが、猫が好きな人でした。猫を見ると、つい母を思いだしてしまうのです。そしてその面影が、どこか村澤さんに似ています。……いや、この話はやめておきましょう! これじゃまるで僕はマザコンの不審者だ。ははっ」
無理やり作ったのがよくわかる笑顔が、逆に「お願いだからこれ以上は聞かないでくれ」と語っていた。
不幸な最期、という彼の言葉が気になったが、聞き出せる雰囲気ではない。また、聞いてはいけないような気もする。
「帰りましょうか! おかげさまで猫も埋葬できたし、雨に濡れて風邪引きますし。先ほどは本当に失礼しました。申し訳ない! 忘れて……いただけたら幸いです」
「嫌です」
「え?」
「……フジョボーコーで訴えます」
「そんな」
「うふふ。嘘ですよ。わかりました、お互いに忘れましょう! さあ、そろそろ帰りましょうか」
忘れたくなかった。忘れられる自信もなかった。でも、そう言うしかなかった。〝さっきのこと”にはお互い触れないまま、映画の話で不自然に盛り上がりながら、わたしたちは駅まで歩いた。電車の窓ガラスに、38歳の女の顔が映っている。山崎編集長の お母様、わたしはあなたに似ているのですか? わたしは、まだ恋をする資格があるとお思いですか?
「夫がいるのに……わたし何を言っているのだろう?」
独り言だったつもりが思わず声になっていたようで、隣でつり革をつかんでいた大学生風の男の子が、ちらりとこちらを見た。
30年ぶりに夫以外の男とキスをしても、電車のなかで大学生に不審がられても、いつものように朝はやってくる。トーストをかじりながら日本経済新聞を真剣に読んでいる夫に「行ってきます!」と平静を装って声をかけ、わたしは家を出た。
ヤマサキマコトと、どんな顔で接すればいいのだろう? これと似たシチュエーションは14歳のとき、初めてキスをした翌日の 教室で経験しているが、まさかこの年になって昼ドラのようなことが自分に起こるなんて。いや、しかしそれは考え過ぎで、向こうは別に何も思ってないかもしれないし……などといろいろ考えているうちに、気がついたら会社に着いてしまった。
「おはようございます」
先に出社していた山崎編集長が、ごく普通のニュアンスでわたしにあいさつをする。
「あ、おはようございます」
……わたし大丈夫? いまの声、裏返っていたような気がする。ヤマサキマコトの、まるで何もなかったかのような落ち着きっぷりが、わたしを軽く苛立たせる。もう少し照れとかぎこちなさとか、そういう感情はないわけ? 「まぁ怒ってもしょうがないし、いったい何に怒ってるのか自分でもわからないし」
声に出ないよう気をつけながら、目の前にドサッと積まれた初校ゲラの校正作業に集中した。
1週間後の午後、隣の席の由香里ちゃんが話しかけてきた。
「ヨーコさん、編集長と何かありました?」
え? どうしてこのコ、こんなところで無駄に鋭いの? あれ以来、何もないのに。
「何かって、なに?」「いや、いつもあんまり会話し ないヨーコさんと編集長ですけど、ここ最近さらにお互い無視し合ってるみたいな気がしたんで、何かトラブったのかなぁと」
「別に何もないわよ。ヤマサキさんが無口なのはいつものことだし、わたしも、このところちょっと忙しいのよ」
ならいいんですけどぉ……と言って自分の仕事に戻る由香里ちゃん。どきっとすると同時に、妙に鋭い30代女子から見ると最近のヤマサキは決して平静でもないようだということ知り、なぜかいきなり気分が高揚し、赤ペンの動きも速くなった。
いい年して何をやっているのだ、わたし。
ヤマサキ編集長とは業務でも私用でもこれといった接点はないまま、さらに1週間ほどが過ぎ、ホッとしたような、でもちょっとガッカリしたような気持ちでいたある日、ヤマサキマコトにデスクまで呼ばれた。
「出張……ですか?」
デスクに両肘を置いた彼が、わたしに告げる。
「はい。竜崎藤五郎先生っていう、旅関係の随筆ではかなりの大御所なんですが」
竜崎藤五郎ならわたしも知っている。最近すごく人気が出てきた作家で、けっこう面白いエッセイを書く人だ。
「竜崎先生には軽井沢の宿でウチの原稿を書いていただいて、その原稿を取りに行ってほしいんです。いまだ万年筆なんで」 ヤマサキマコトが笑う。あの日以来の、わた しに向けた笑顔。
「知っているかもしれませんが竜崎先生はかなり難しい人で、女性編集者を連れて行くと、色々な意味でスムーズに進むんです」
「なるほど。でも、それなら若い由香里さんのほうが」
「それがですね……竜崎先生は、なんと言いますか〝大人の女性〟が大層お好きで……」
やだ、いわゆる熟女好きってやつ?
「いやもちろん、こんな業務、本当に申し訳ないと思っ ています。当然ですが変なことはいっさいさせませんし、ご家庭のある村澤さんですので、新幹線で日帰りできるよう調整します」
「それは大丈夫だと思いますが、わたし一人が行くのですか?」
「竜崎先生は僕が担当していますので、僕も行きます」
ヤマサキと2人、新幹線で軽井沢へ。もちろん単に仕事上の出張で、日帰りなのだけど……。
「わかりました。スケジュールを確認しますが、おそらく問題ないと思います」
逡巡していたつもりなのに、気づいたら口が勝手に動いていた。
あの夜のことは忘れようと思い、ほぼ忘れることができたつ もりでいたのに、突然ヤマサキの柔らかい唇の感触がよみがえり、淡い期待を抱いていた自分に今、わたしは気づいてしまった。