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第2話「母の面影」-R50ショートストーリー-

 なぜわたし雨の公園でキスをしたのだろうか。

 1カ月前には、いや1時間前には想像もできなかった展開にとまどいながらーーそしてヤマサキマコトの唇を拒まなかっ自分自身にとまどいながらーーわたしは山崎の言葉を待った。

「先週末、母の三十三回忌ありました」

 ヤマサキさんのお母様は亡くなっている。三十三回忌だからが高校生の頃。でも、それとわたし何の関係が? 頭の中そんな疑問をぐるぐるさせながら、わたしはいかにも年上の女性らしく聞こえるよう「はい」と、落ち着いた声で相づちを打った。

「母は不幸な最期を遂げましたが、が好きな人でした。猫を見ると、つい母思いだしてしまうです。そしてその面影が、どこか村澤さんに似てます。……いや、この話はやめておきましょ! これじゃまるで僕はマザコンの不審者だ。ははっ

 無理やり作ったのがよくわかる笑顔が、逆にお願いだからこれ以上は聞かないでくれ」と語っていた。

 不幸な最期、という彼の言葉が気になっが、聞き出せる雰囲気ではない。また、聞いはいけないようなする。

「帰りましょう! おかげさまで猫も埋葬できし、雨に濡れて風邪引きますし。先ほどは本当に失礼しました。申し訳ない! 忘れて……いただけたら幸いです」

「嫌です

え?

……フジョボーコーで訴えます

そんな」

うふふ。嘘ですよ。わかりました、お互いに忘れましょう! さあ、そろそろ帰りましょうか

 忘れたくなかっ。忘れられる自信なかった。でも、そう言うしかなかった。〝さっきのことにはお互い触れないまま、映画の話で不自然に盛り上がりながら、わたしたちは駅まで歩いた。電車の窓ガラスに、38歳の女の顔が映っている。山崎編集長の お母様、わたしはあなたに似ているですか? わたしは、まだ恋をする資格があると思いですか?

「夫がいるのに……わたし何を言っているのだろう

 独り言だったつもりが思わず声になっていたようで、隣でつり革をつかんでいた大学生風の男の子が、ちらりとこちらを見た。

 30年ぶりに夫以外の男とキスをしても、電車のなかで大学生に不審がられても、いつもように朝はやってくる。トーストかじりながら日本経済新聞を真剣に読んでいる夫に「行ってきま!」と平静装って声をかけ、わたしは家を出た

 ヤマサキマコトと、どんな顔で接すればいいのだろう? これと似たシチュエーション14歳のとき、初めてキスをし翌日教室で経験しているが、まさかこの年になって昼ドラようなことが自分に起こるなんて。いや、しかしそれは考え過ぎで、向こうは別に何思ってないかもしれないし……などといろいろ考えているうちに、気がついたら会社着いてしまった

おはようございます」

 先に出社していた山崎編集長がごく普通のニュアンスでわたしにあいさつをする。

「あ、おはようございます

 ……わたし大丈夫?  いま声、裏返っていたような気がする。ヤマサキマコトの、まるで何もなかったかのよう落ち着きっぷりが、わたし軽く苛立たせる。もう少し照れとかぎこちなさとか、そういう感情はないわけ? まぁ怒ってもしょうがないし、いったい何に怒ってるのか自分でもわからないし」

 声に出ないよう気をつけながら、目前にドサッと積まれた初校ゲラ校正作業に集中した。

 1週間後の午後、隣の席の由香里ちゃんが話しかけてきた。

「ヨーコさん、編集長と何かありました?

 え? どうしてこのコ、こんなところで無駄に鋭いの?  あれ以来、何もないのに

「何かって、なに?」「いや、いつもあんまり会話ないヨーコさんと編集長ですけど、ここ最近さらにお互い無視し合ってるみたいな気がしんで、何かトラブったのかなぁと」

「別に何もないわよ。ヤマサキさんが無口なのはいつものことだし、わたしも、このところちょっと忙しいのよ」

 ならいいんですけどぉ……と言って自分の仕事に戻る由香里ちゃん。どきっとすると同時に、妙に鋭30女子から見ると最近ヤマサキ決して平静でもないようだということ知り、なぜかいきり気分高揚し、赤ペンの動きも速くなった。

 いい年して何をやっているのだ、わたし。

 ヤマサキ編集とは業務でも用でもこれといった接点はないまま、さらに1週間ほどが過ぎホッとしような、でもちょっとガッカリしよう気持ちでたある日、ヤマサキマコトにデスクまで呼ばれた。

「出張……ですか?

 デスクに両肘を置いた彼わたしに告げる。

「はい。竜崎藤五郎先生っていう、旅関係の随筆ではかなり大御所なんですが

 竜崎藤五郎ならわたしも知っている。最近すごく人気が出てきた作家で、けっこう面白いエッセイを書くだ。

「竜崎先生には軽井沢の宿でウチの原稿を書いいただいて、その原稿を取りに行ってほしいんです。いまだ万年筆なんで」 ヤマサキマコトが笑うあの日以来の、わた しに向けた笑顔。

「知っているかもしれませんが竜崎先生はかなり難しい人で、女性編集者を連れて行くと、色々な意味でスムーズに進むんです」

「なるほど。でも、それなら若い由香里さんのほうが

それです……竜崎先生は、なんと言いますか〝大人の女性〟が大層お好きで……

 やだ、いわゆる熟女好きってやつ?

「いやもちろん、こんな業務、本当に申し訳ないと思っ てます。当然ですが変なことはいっさいさせませんし、ご家庭のある村澤さんですので、新幹線で日帰りできるよう調整します」

それ大丈夫と思いますが、わたし一人が行くですか?

竜崎先生は僕が担当していますので、僕も行きます」

 ヤマサキと2、新幹線で軽井沢へ。もちろん単に仕事上の出張で、日帰りなのだけど……

わかりました。スケジュール確認しますが、おそらく問題ないと思います」

 逡巡たつもりなのに気づいたら口が勝手に動いていた。

 あの夜のことは忘れようと思い、ほぼ忘れることができたつ もりでいたのに、突然ヤマサキの柔らかい唇の感触がよみがえり、淡い期待を抱いいた自分に今、わたしは気づいてしまった。

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