15時22分軽井沢駅着予定の北陸新幹線「あさま613号」は、雑誌を読むわたしと、わたしの隣で再校のゲラに赤字を入れている山崎 誠編集長を乗せ、遠い山々がかすかな雪化粧を始めた安中榛名駅付近を猛スピードで通過した。次が、軽井沢だ。
「いまだ万年筆で書いている」と聞いていた旅行エッセイの大御所、竜崎藤五郎が滞在するホテルの机には、ちゃっかりノートPCがあった。脂が乗ったお腹付近をさすりながら「いや、さすがに僕もパソコン始めようと思ってね。でもLAN接続がわからないので、ヤマサキくんと、編集のお嬢さんに教えてもらおうと思ってさ、わはは」など呑気に笑っている。お嬢さん”とは嬉しいような恥ずかしいような微妙なところだが、わたしの胸元とタイトスカートのあたりを無遠慮に凝視するのは本当にやめてほしい。
ほぼ完成していた原稿の最終仕上げを待ち、山崎編集長がノートPCのLAN接続を肩代わりしたうえで原稿を送信した。あとは次号の企画会議と称して、ホテル内のしゃれた料亭でほろ酔い加減の竜崎藤五郎に少々のお酌をしてやれば、本日の業務は完了だ。
食事中の竜崎のセクハラすれすれの言動は、山崎編集長が上手にさばいてくれた。大御所の機嫌を損なわないよう、それでいて部下のこともしっかり守りながら、次号企画も引き出すヤマサキの手際はなかなかのものだった。この人、やっぱり賢いのね。そして優しい・・・・・・のかな?
「では先生、わたくしどもはそろそろ社へ戻らせていただきます」
深々と一礼する山崎編集長の前で、もの惜しそうにわたしを凝視する竜崎の視線をはねつけるように一礼した。帰りの新幹線は21時5分軽井沢発。駅へ向かうタクシーの中でスマートフォンを見ている山崎編集長によれば、東京駅着は2時過ぎぐらいとのこと。ずいぶん飲まされたはずなのにほとんど素面のように見えるのは、この人ものすごくお酒に強いのか、それともこれがプロの編集者というものなのか?わたしはそんなことを考えながら、夜の木々たちが後方へ流れゆく様をタクシー後席から見つめていた。
「……大変です、村澤さん」
ヤマサキマコトが、困ったような声をあげた。
「どうしたのですか?編集部で何かトラブルが?」
「いや、新幹線が架線トラブルで完全に止まっています。ニュースいわく復旧のめどは立っておらず、と……」
一瞬、何が起こったのかが理解できなかった。そして数秒後、わたしの胸のなかにさまざまな思いが去来した。〈今日中に東京に帰れない?〉〈夫に連絡しなきゃ〉〈というかヤマサキマコトと軽井沢で······Ⅰ泊?〉
無言のまま2分ほどスマホのさまざまな画面を検索していたヤマサキが、落ち着きを取り戻した様子で言った。「陽子さん、こんなことになってしまい本当に申し訳ありません。いろいろ調べましたが、本日中に帰宅するのが難しい状況です。わたしが責任を持って宿を用意しますので、ご家族の方にご連絡を入れていただけますか?もちろん、しっかりしたホテルの個室を社費で用意し、復旧次第、最短の便を手配します」
確かに、どうすることもできない。わたしは「わかりました」と告げ、スマートフォンの電話帳から「正雄」、つまり夫の番号を呼び出した。ただ、「今、この人わたしのこと陽子って名前で呼んだ・・・・・・」と思いながら。
「ダブルの1室を除いて満室ですか・・・・・・」
架線トラブルの影響かヤマサキマコトがスマホで検索した限りではどの宿泊施設も満室で、唯一望みがありそうだったのが、ネット予約に対応していない、佐久市のやや古びたビジネスホテルだった。しかし、タクシーでここまでやって来たが、ひと足遅かった。
「わかりました。ではそのダブルの部屋を1泊、お願いします」
ちょっと!ダブルの部屋に泊まるってこと!?わたしまだ心の準備・・・・・・動揺するわたしの横で、淡々とヤマサキがホテルのフロントマンに「1名でお願いします。あ、朝食も付けてください」と告げてから、わたしを振り向いて笑顔で言った。「僕は漫画喫茶で寝ますから安心してください。軽井沢にはないようですが、調べたら佐久にあるらしいので」
「でも、それでは・・・」「村澤さんはご存じないかな?最近の”マンキツ”は結構きれいで快適ですよ。僕、たまにですが東京でも行きますし」
また、呼び方が「村澤さん」に戻った。そこに意味はあるのかないのか?わからないし、考えても詮無いことだ。「では、お言葉に甘えてここに泊まらせていただきます。編集長も、どうかご無事で……」「はは、大げさですよ、陽子さん。それじゃ明日電話します」
眠れなかった。ヤマサキマコトの顔、赤ペンを握る指先の残像、そして「陽子さん」という音の響きだけが、わたしの頭のなかをぐるぐる回っていた。時刻はまだ午前0時30分自販機で買った久しぶりの缶ビールは、まったく睡眠薬になってくれない。夜が早く明けてほしい。朝になって、またヤマサキと他愛のない話がしたい。彼の、細く長い指先を見ていたい。
〈コン、コン〉
ためらいがちなノックの音が部屋に響いた。「こんな時間に誰?」とは思わなかった。なぜかわからないが、確信があった。覗き穴から廊下にいる人物を確認したのち、わたしは静かにドアノブを回した
「村澤さん。あの、こんな時間に大変申し訳なく、あの、その、理由としましては、というか起きていましたか?」
「いいから。入って」
ドアを閉めた。そこに「編集長」と「とうが立った部下」はいなかった。0時30分のホテルの部屋で見つめ合う「年下の男」と「年上の女」がいるだけだった。ヤマサキには聞きたいことがたくさんある。こんな年季が入ったオバサンのどこがいいの?わたしに似ているというお母さまはどうして亡くなったの?奥様との関係は?セックスしているの?
でも、すべては「あとで」だ。ヤマサキマコトがわたしの目を見る。わたしも見る。どちらからともなくキスをした。雨の夜の公園のときとは違う、舌を絡ませあうディープキス。何年ぶりだろう。ヤマサキマコトが、わたしが着ていたホテル備品の白いタオル地の寝間着の紐をほどく。わたしはヤマサキのベルトを外し、その細い腰から両手を使ってズボンを一気に下ろす。快楽の海にほぼ溺れながらも、頭のどこかで「濡れなかったらどうしよう?」と冷静に思い、このところ気になっている腰痛についても少し心配したが、腰は大丈夫だった。そして、わたしは濡れた。彼を迎え入れるには十分すぎるほどに。
東京に戻ったわたしたちは、それから週に一度、多いときには週に二度、会うようになった。そして行為が終わるたびに、さまざまな話をした。マコトの半生。なぜ、わたしなのか。ご母堂のこと奥様との関係。そのすべてを・・・・・・とは言わないが、多くを、わたしは納得することができた。桜が散った4月の水曜日、初めてキスをしたあの公園で、突然のお別れを切り出されるまでは。